〈思い出〉1
〈思い出〉1
がむしゃらにと決心してはみたが身体が無いという欠点は簡単に補えないのも事実で、
この姿での利点といえば働かないでいいから時間が余っている位だろう。
こんな姿になったからか今までよりも考えてしまうのは、父親の存在意義。
親父とはきちんと怒れる事と母親よりも冷静でいれる事だと思う。
一昔前は地震雷家事親父なんて言って父親は恐怖の対象だったが、やはり親父はそうあるべきだと思う。
其れは周りの大人達も同じで、自分が子供の頃は先生に殴られるなんて当たり前で。
中学生位の頃にはむしろありがたいとも思えた。
其れが今ではやれ暴力だの何だのと大袈裟に騒ぎたて、全ての善悪を子供の権利に置き換え決め付けてしまい。
本当に大事にするべく優先順位も見失い、教育者達すら押さえ込む。
勿論むやみやたらに叱りつけ叩くのを認める訳ではないが、時代の流れというやつだろう。
どんな子供でも抱きしめれば伝わるなんてTVの評論家は言うが、
自分では解っていてもどうしようもない時。
叱ってほしいと思う時も有る。
其れは助けてほしいと同じで、実際に自分が子供の時そう思ったものだ。
とはいえ今の自分のように悪霊として怖れられるでは意味は無く、
今更どう足掻いても無意味なのかも知れない。
自分が思い描く父親像の中に死んでからは含まれていなかったのだから、仕方ないといえば仕方ないが。
そもそも自分の考える父親像には決定的に欠けている現実部分が有った。
其れは思春期の多感な時期に母子家庭で育ち、実際の父親と接した記憶が全く無い事だった。
母親が再婚したのは自分が小学一年生の二学期頃。
少しずつ家に居着くようになっていった優しい大人が、いつの間にか自分にも大事になっていき。
意識せずに父さんと呼べるようになるには、出会ってから一年以上が必要だった。
そのせいか幼少期の自分は素直に甘える事の出来ない子供だったが、
それでも子供ながらに隠していた自分の本心は嬉しかった。
どんなに忙しく仕事で帰りが遅くなっても怒る事の無い優しい母さんは、
子供には苦労を悟られまいとしていたようだが隠しきれるものではなく。
そんな疲れきった母親を少しでも楽にしてあげたいなんて思っても、子供の自分に何が出来る訳も無い。
誕生日や正月、夏休みのお出かけのような何処の家庭にでも有るような幸せを望まず。
ワガママを言って、母親に負担を掛けない事だけが自分に唯一出来る事だった。
幼少期でも我が家が普通の家庭ではない自覚は多少有ったが、この頃は別に不幸だとは思っていなく。
純粋に母親を心配し、単純に母親の幸せを望んでいた。
ニュースで亡くなった有名画家の絵画が一億円で売れたと知ると、
ひたすら芸術性の欠片も無い絵を描き続けたり。
漫画家の印税が何千万と知れば、読み返すと恥ずかしくて倒れる位の自作漫画を描き始めたり。
いずれも特別な努力や勉強するでも無く、勢い任せの行動で大成する訳なんてなく。
そんな生活の中で現れた父親と居る時に母親が見せる喜ぶ表情は、
自分にも嬉しく何だか普通の家庭になれた気がしていた。
だが其の父親との幸せな家族生活もいつまでもは続かず、
自分が小学六年生になる前に父親は家を出て行き帰らなくなった。
数少ない思い出せる事といえば海水浴に連れて行ってもらい、溺れそうになったのを助けてもらった事。
初めて外食に連れて行ってもらった時に、遠慮して一番安いライスを頼んだ事。
釣りに連れて行ってもらったが家族の誰も釣れず、それでも一人はしゃいでいた事。
玩具の取り合いで兄との兄弟ゲンカに負け泣いて悔しがっていた時
「ケンカで勝てなくても他で勝てる所を探せば良い」と教えてもらった事。
ずっと面倒くさくてサボっていた宿題を手伝ってもらった時、初めて勉強を面白いと思えた事。
少しずつ成長していくにつれて、
連れ子の居る母親と一緒になってくれた父親に対する理解は憧れに変わっていき。
其の想いは自らが大人になった時、目指すべく父親の理想像へとなっていく。
だがそんな想いとは裏腹に別れの日は訪れる。
其れは自分が小学六年生になるかならないか位の頃だった。